こんにちは、marimyです。
お盆ですね。ですので、今回はお釈迦様の話でmarimyに強く印象にのこっている話を。
ですがその前に、marimyは仏教を正しく勉強をしてきた訳でも経典を読み込んできたわけでもありません、ネットで書かれているのを見て勝手に解釈をして、勝手に感銘を受けただけですので、これからの話はmarimyの盛大な勘違いの可能性があります。
もし興味をもたれたら、ぜひご自身でいろいろな意見を見て回ってください。
それでは本題に。
「筏の譬え(いかだのたとえ)」です。(マッジマ・ニカーヤ第22経?)
よそ様からコピペはできないので、marimyなりの要約です。
お釈迦さまがいいます。
川岸を旅する人が洪水にあった。
こちら側は危険で、川向こうは安全だが渡るための船も橋もない。
旅人は草木で筏を作って川をなんとか渡り、安全な岸についた。
旅人は「この筏はとても役に立ったから捨てていくのはもったいない、これからも大事に持っていこう」と考えて担いで歩き出した。
果たして旅人のその行動は良かったのか?
弟子たちが答えます。
いいえ、置いていくべきです。
お釈迦さまが続けます。
その通り。
「筏は川を渡るためにとても役に立ったが、筏は川をわたるための道具。この先は不要だから置いていこう」
これが正しい判断である。
執着からはなれるように、このたとえを説いた。
このたとえをよく考えて。
筏は教え。
正しい教えでも捨てるべき時がくる。
間違った教えなら、なおさら捨てなければいけない。
もうひとつ、
マッジマ・ニカーヤの第63経(たぶん毒矢の譬え?)
ある弟子が、世界は永遠かとか死後の世界があるのかという問いになぜ答えてくれないのかと聞いたときのお釈迦様の答え、
私はそういったことを教えるから修行しなさいといったか。
人は死後の世界があるということがわかって始めて修行できるようになるわけでも、死後の世界がないということがわかって始めて修行できるようになるわけでもない。
死後の世界が存在しても存在しなくても、どちらにしても現実に生老病死、悲嘆苦憂悩はあって、それらを克服するための方法を私は教えている。
お釈迦様のこの二つの教えは、教えとは目的に達するための道具にすぎないんだよってことと、教えは今生きているうちのあり方を言っているんだよってことだと思います。
過去自分を支えていた大切な事や物であってもそれが今自分を縛るものや重荷になってしまっているのなら、それはもう手放すべきものなのかも、手放す事ができなくてもちょっと横において一息ついてみるべきかも。marimayはそう受け取りました。
marimyはその境地はまだまだはるか彼方ですが、この教えをみて少し心が軽くなりました。
読んでくださったあなたの心もちょっとは軽くなってくれればうれしいです。
それでは、慌てない慌てない、一休み一休み^^の精神で。
…これは一休さんですね。